生産量第3位、青森の馬肉文化とは?
▼青森県が「名馬の産地」となった理由とは?
馬肉料理を食べるようになったのは戦後ですが、馬の生産のきっかけになったのは鎌倉時代の南部一族の活躍にあったといいます。
当時、源頼朝につかえていた武将、南部光行が八戸地方を統治し、牧場を作り、馬の生産と飼育を行ないました。気候・風土が馬の飼育に適していた事から以後、名馬の産地として知られていきました。
また、明治18年には陸軍軍事補充部が開設され、南部の農家が軍馬御用馬の飼育を行ない始めたことで、地域に馬の生産が根付いていったともされています。
名馬の産地とされていることから、十和田市のマンホールには馬がデザインされたマンホールがあるみたいですよ!カラーバージョンもあるみたいなので十和田市に行く際は是非探してみてはいかがですか?
▼源頼朝が南部光行に八戸地方を統治させたことがはじまり
光行は、元々馬の名産地の甲斐の国(現在の山梨県)の出身で、元より培っていた馬の飼育や牧場経営には大いに手腕を発揮しました。
そして、八戸地方は武将の乗馬として歴史に名を残した優秀な南部馬の産地であったところに目をつけたのが鎌倉幕府を築いた源頼朝だったのです。
その後、南部光行に糠部(八戸地方)を治めさせ、南部氏の始祖である光行から30年後に南部氏の家督を継いだ実光の時代に、一戸・七戸・四戸・九戸の4地区にそれぞれ行朝・朝清・宗朝・行連の4兄弟を配して地方経営を行い、馬産に力を注いでいきました。
▼「戸」のつく地名の由来とは?
東北地方に行くと、「戸」とつく地名をよく耳にすることが多いですが、これは、馬の管理や鎌倉に貢馬するために設けた行政上の組織形態が「戸」だったことが、由来といわれています。
八戸地方から岩手県の北部地域である広大な地を官営の牧場とし、大まかに九つの区画として運営していたとされます。
一戸から九戸までの地名が青森と岩手県にあるのですが、実は「四戸」だけが無く、その理由は明らかにされていないんです…。
▼馬肉をおいしく味わう「義経鍋」
地域で親しまれている馬肉料理として、濃い目の味付けで食べる馬肉鍋や、義経鍋が知られます。特に義経鍋は、源義経の刀の鍔を模したという独特な鍋を使います。
義経鍋は源義経が多武峰を訪れたことに由来する料理です。兄である頼朝の怒りに触れた義経が、お寺の住職である十字坊を頼り、弁慶たち家来一行を引き連れて落ち延びました。
しかしその時は大晦日に近く、一行は飢えと寒さ、追われる身の緊張からか疲れ果て大変弱っていました。
その一行を元気付けたいと思った十字坊が弟子たちに命じて、山中でも手に入る野鳥や山菜などを集めもてなしたのが義経鍋の始まりといわれています。
この鍋は中央では鍋物を、その周りでは焼肉風に焼き物を調理できます。同時に味わえるのが嬉しいですね!