長野へ馬を運ぶばくろうが文化を創った
▼長野で馬肉文化が根付いた歴史とは
長野ではもともと、年老いた農耕馬を食べ始めたのが馬肉を食するようになったキッカケとも言われています。
しかし、馬肉の需要が大きくなり、一方で農耕馬が減ってくると、地元の馬だけでは供給不足になってしまいました。
そこで、他の地域から馬を買ってくるようになったのですが、その行商人が「ばくろう」と呼ばれた人たちでした。
▼長野を“馬肉文化圏”にならしめた大きな要因「ばくろう」
長野は馬肉の大規模な産地ではないのにも関わらず、馬肉文化が根付いているのは、馬の行商人「ばくろう」の存在があったからです。
馬はまず、東京・新宿にいったん運ばれそこで汽車を乗り換えて長野へ。疲労の大きい長距離移動ゆえにばくろうたちは乗り換え地の新宿で空腹を満たしていたといいます。
そこで利用していた食堂に牛肉のすき焼きが提供されていて、その味が伝聞されて、長野では馬肉のすき焼きが広がったとされています。
馬肉の食べる習慣が廃れず継承されていった背景には、馬肉が親しまれていたことと、その需要に応えるべく、ばくろうが活躍したからだといえます。
▼「ばくろう」の由来とは
「ばくろう」は中国古代の馬を鑑定する名人「伯楽」に由来するといわれ、これが日本では「馬喰」「博労」の漢字を当てたようです。
その他にも、「馬苦ろう」といった書き方もして、その要因は様々であるとされています。
東京には「馬喰町」や秋田には「馬口労町」の地名があり、牛馬を売買する地で栄えた町であったことがこの名前の由来であるとされています。
なので、漢字のごとく「馬を喰らう町」などといったのが由来ではないようです。